FX外国為替取引投資の基礎知識と始め方!

FX為替が動いた事例

 
アメリカを悩ませる双子の赤字
ここからは為替の大変動が起きた歴史的な出来事を追うことで、為替がどのように変動してきたかを具体的に見ていきましょう。

1981年、レーガン大統領は国内経済を立て直すために「強いアメリカ、強いドル」を目指す、いわゆるレーガノミックスと呼ばれる政策を掲げて大幅な減税を打ち出しました。当初、景気は回復の兆候を示しましたが、税収は伸び悩んで財政赤字は解消されませんでした。悪いことに、強いドルは電気製品や自動車などの輸出競争力を失わせ、農産物の輸入を促進したのです。その結果、アメリカの貿易収支は大幅な赤字になり、財政収支と貿易収支の赤字は双子の赤字と呼ばれてアメリカ経済の抱える大問題になっていきました。

プラザ合意の内容と成果
「強いドル」政策は転換を余儀なくされ、1985年9月22日ニューヨークのプラザホテルで5カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)が極秘裏に開催されました。5ヵ国とはアメリカ、イギリス、西ドイツ(現ドイツ)、フランス、日本です。ここで合意された先進国の政策協調はプラザ合意と呼ばれ、世界経済に新しい流れを作りました。具体的に合意した内容は、①為替レートは経常収支の不均衡を是正するうえで役割を果たすべきである、②為替レートは各国のファンダメンタルズを反映すべきである、③各国通貨はドルに対してある程度の上昇が望ましい、④G5各国はより緊密に協力する用意がある、というものでした。プラザ合意の効果は大きく、翌日の為替市場はドル売りー色になりました。円相場も1ドル240円から230円まで上昇したのです。


 
ルーブル合意で為替水準の安定化策を打ち出す
プラザ合意以降も、ドルは下がり続けました。そこで1987年2月のルーブル合意では、これ以上のドル安は世界経済に悪影響が出るとして、為替レートの調整に終止符を打つドル安修正宣言が出されたのです。これによって、ドル安の進行にやっと歯止めがかかりました。このときの為替レートは1ドル150円、プラザ合意に基づく各国の協調介入の総額は180億ドルにも達していました。そして、今後の為替水準については、一定のレベルから離れた場合に協調介入を行うというレファレンス・レンジが協議されたのです。これは円相場で1ドル153.50円を中心レートとし、この上下2.5%で初期介入し、5%に達した場合は政策協議を開始するという内容でした。

G7の協調体制が乱れて株は大暴落
1987年10月19日、週明けのニューヨーク株式市場は、過去に例を見ない大暴落で始まりました。これはブラック・マンデーと呼ばれ、世界の株式市場へと波及。日本の東京株式市場も3,836円、およそ15%も暴落して大混乱に陥ったのです。その原因は、アメリカの双子の赤字が解消しないことにあったのですが、潜在的にはドル安が導いたといっても過言ではありませんでした。

プラザ合意以降、ドル安に導くために各国ともFF金利に合わせて政策金利を引き下げてきましたが、西ドイツ(現ドイツ)ではインフレの兆候を抑えようと、短期金利を高めに誘導し始めました。この動きに対して、G7の協調体制がそのうち崩れるだろうと読んでいた市場は、敏感に反応。金利の先高感が強まって、ブラック・マンデーの引き金になったのです。


 
米ドルと連動するタイバーツ
1997年のアジア通貨危機では、アジア各国の通貨が連鎖的に暴落する深刻な事態になりました。その震源になったのがタイパーツです。円相場ともからんでくる、その原因を探ってみましょう。もともとアジア諸国は、通貨政策として自国通貨の為替レートを主要国の通貨に連動させるペツグ制を採用していました。

ペッグ制には、1つの通貨に連動させる方法と複数の通貨に連動させる通貨パスケット制があります。バスケット方式では、米ドル、ユーロ、円といった主要通貨に対しそれぞれ比率を決めて加重平均します。例えば、A国の通貨がバスケット方式を採用して、米ドル、ユーロ、円の比率を60・30・10と設定したら、A国通貨の変動の60%は米ドルの影響を受けることになるのです。

タイではバスケット方式を採用していましたが、米ドルの比重が高かったため実質的にはドルペッグ制でした。言い換えれば、タイパーツは対米ドルで固定相場制、それ以外の通貨に対しては変動相場制だったのです。

円高を背景に景気拡大を続けたタイ
プラザ合意以降、円高が長期間続いて1995年4月には1ドル70円台まで進行しました。この持続的な円高を受け、日本企業は土地と労働賃金の安いタイやインドネシアなどASEAN(東南アジア諸国連合)諸国に直接投資を行い、工場を建設しました。これがASEAN諸国の経済成長に大きく貢献したのです。さらに、円高のおかげでタイの輸出競争力は相対的に強くなり、日本向け輸出は拡大しました。

一転して円安の流れがタイ経済を襲う
タイでは、経済成長にともなって設備投資などの資金需要をまかなうため、高金利政策を採用して海外からの資本流入を促していました。事実上のドル・ペッグ制で為替リスクがないため、海外投資家にとってタイの高金利は魅力的でした。このようにタイ経済は、円高パーツ安による輸出需要と高金利による海外資本の蓄積という2本の柱で支えられていたのです。

ところが、1995年4月のG7で「秩序ある反転が望ましい」との声明が発表され、ドル買いの協調介入が行われたのです。それまでの円高基調は、1ドルフ9.75円で天井を打つと円安に反転。 1997年5月には、1ドル127円まで円が売られました。当然、タイパーツもドルに連動していたので、円安パーツ高になったのです。

変動相場を余儀なくされる
これまで順調に成長を続けてきたタイ経済は、円安に動き始めるとすべてが逆回転を始めました。タイの輸出競争力は弱まり、2桁成長が10年間続いた輸出はマイナスとなり、わずか2年間でタイの貿易収支赤字は大幅に拡大したのです。また、不動産価格も下落に転じ、ついにバブルの崩壊が鮮明になりました。これによって外国資本は、すばやく引き上げられました。低い金利でドルを借りて高金利のパーツを運用していた外国人投資家が、一斉にパーツ売りに転じたのです。これを買い支えきれなかったタイ政府と中央銀行は、やむなく変動相場制に移行しました。タイの通貨危機は、ほかのASEAN諸国や韓国にも飛び火し、日本でも大手金融機関が相次いで破たんする状況に追い込まれていったのです。


 
「為替相場の一層の柔軟性」を求める声明
2003年9月20日にドバイでG7が開かれるのを前に、アメリカ、ドイツ、日本の3カ国で実務者レベルの話し合いがもたれました。その目的は、安すぎる中国の人民元への対応です。

当時、世界中に出回った安いコストの中国製品は、各国の製造業者の価格競争力を弱めるだけでなく、デフレを助長しているとの批判が強くありました。特に、アメリカの貿易収支赤字の大きな部分を中国が占め、アメリカ政府・議会は中国の人民元が安く放置されていることが元凶であると結論づけたのです。

そこで、アメリカのテーラー財務次官は、ドバイのG7会議で中国政府が柔軟な為替政策に転換することを促す趣旨を共同声明の中に盛り込もうと考えたのです。3カ国の実務者協議は、G7会議の当日まで続きました。話し合いでは、「flexible exchange rate (柔軟な為替相場)」を求める方向でまとまりましたが、本会議では欧州中央銀行総裁から「more flexibility in exchange rate(為替相場の一層の柔軟性)」という表現に変える案が出され、承認されました。

ところが、当時の日本はデフレ脱却の道半ばであり、円が強くなることを恐れて大量の為替介入を行っていました。「為替相場の柔軟性が望ましい」の文言は人民元に向けられたのですが、日本の大量介入への批判ともとられてしまったのです。こうして人民元の管理された固定相場を崩そうと画策したドバイ会議でしたが、結果は失敗したといってよいでしょう。皮肉にもこの会議の後、ユーロは
米ドルに対して円よりも強くなったのです。


 
巨額な為替介入で円高をコントロール
2003年、日本経済はデフレに陥り、その克服にはある程度のインフレ策もやむなしとの声が聞かれました。日本銀行は国内景気を喚起するためゼロ金利政策を採り、為替についても円高を阻止するために積極的な介入を繰り返しました。このとき、為替介入の金額は1~3月で2兆3,000億円にも達しています。しかし、4月にはついに日経平均株価が8,000円を割り込むまでになったのです。

一方、アメリカも同じような状況でした。コストの安い中国製品の輸入も影響して、FRBは恒常的なインフレ率の低下に苦慮していたのです。 2003年5月には、FRBのグリーンスパン議長がデフレ克服のために政策金利の引き下げを示唆すると、アメリカの短期金利が低下するという予測が市場に広まって、1ドルは120円から115円まで買われました。さらに、円が強くなったのです。

これに政府・日銀はすぐに反応。為替介入で円高を阻止しようと、大量のドル買いに奔走しました。この動きに対して、アメリカ政府は目立った批判をしていません。小泉首相とブッシュ大統領の関係が良好だったこともありますが、何よりも介入によるドル資金がアメリカ国債の購入にあてられたので、イラク戦争に突入していたアメリカにとって資金面から好都合だったのです。

2004年になって、日本の景気はようやくもち直してきました。この年の3月、デフレ状況が解消に向かっても巨額の為替介入を続けているとして、グリーンスパン議長が日本を異例の批判。この発言を受けるかのように、3月5日を最後に政府・日銀は為替介入を取りやめる方向に舵を切っていったのです。


 
米中で貿易摩擦が問題化
1994年以来、人民元はドル・ペッグ制を採用して1ドル8.27元あたりで固定されていました。この安い人民元と低コストの労働力を背景に、中国製品は大きな輸出競争力をもったのです。中国政府の経済開放路線も順調に進み、今や実質経済成長率は10%を超える伸びを示しています。

もちろん、中国に生産拠点を移した日本やアメリカ企業にも大きな利益をもたらしました。しかし、アメリカの対中国貿易赤字は1,600~2,000億ドルまで拡大し、双子の赤字に悩むアメリカにとって看過できない事態になったのです。スノー財務長官は、「中国からの輸入がアメリカの労働者の雇用の機会を奪っている」と非難。アメリカと中国の貿易摩擦は、日を追うごとに政治問題として大きくなっていったのです。プラザ合意以前の1980年代前半に、アメリカと日本で政治問題化した貿易摩擦とちょうど似たような状況にあるといえるでしょう。

人民元は固定相場から管理変動相場制へ
2005年9月に胡錦濤主席の訪米が決まると、アメリカ国内では8月にも中国の為替レートがより柔軟な方向に変わるだろうという観測が広まり、人民元は買い進まれました。しかし、市場関係者の意表をつくように7月にドル・ペッグ制からバスケット方式を参照にした管理変動相場制を導入、実質的に2.1%という小幅な切り上げを行ったのです。市場では10%程度の切り上げが妥当と見られていただけに、小幅にとどまった切り上げがアメリカ産業界にくすぶる対中強硬論を解消することはありませんでした。


 
ユーロシフトはアメリカ経済の破たんシナリオ
中近東のほとんどの産油国はドルーペッグ制を採用していますが、それに疑問を感じ始めています。その理由は、「ドルが弱い」からです。一方で、ユーロは新たな基軸通貨の役割を担おうとしています。基軸通貨としての米ドルの役目は終わったのでしょうか?

もし、産油国が完全にドル・ペッグ制を見直すとなると、原油価格はドルからユーロ表示になります。すると、外貨準備の少ないアメリカは、原油を輸入するためにドルを売ってユーロを購入しなければなりません。原油の最大消費国であるアメリカが、原油輸入のため大量のドル売却を余儀なくされたら、ドルの暴落は必至。これを防ごうと金利を引き上げれば、米国経済は大打撃を受けるでしょう。

アメリカに出資するサウジアラビアの思惑
最大の産油国であるサウジアラビアの場合はどうでしょうか。外貨準備の大部分をドルでもつこの国は、ドルが暴落すれば大きな損害も被ることになります。また、アメリカが金利を引き上げれば、保有する大量のアメリカ国債の値段は崩れるでしょう。それだけでなく、極端なドル安はアメリカの威信を地に墜とし、中東におけるアメリカ軍の紛争抑止効果が減少する可能性もあります。もちろん、王政維持にとって、この地域の安定は大前提。そこで、サブプライム問題で悩むアメリカの金融機関などに対して、アブダビ投資庁は巨額の出資を行っているのです。

このような背景から、ドルは弱くなったといわれながらも、台頭してくるユーロにその座を明け渡すことなく、世界の基軸通貨としての地位を保っているのです。